「それでも私は大人になっていたらしい。」
体からぐーっと力を抜いて。
学生最後の夏休み7日目を迎えました。
一昨日ふと思ったことです。
車でドライブをしました。
私は大学2年次に教習所に通い、大学3年の免許取得の最終月に免許をGETしました。
なので、早く免許をとっていたらもう若葉マークは卒業してもいい頃なのですが、まだ若葉マークな上、最近運転したのは4月に近所を運転したくらいです。
でも、ドライブ行こうと誘われたら気分も上がって行ってしまうこともあるじゃないですか、それです。
私と友人は高田馬場駅から日産レンタカーで車を借り、千葉県まで車を走らせました。
経由は高田馬場駅から川崎駅、川崎駅から東京湾アクアラインを通過して海ほたる、そこから千葉の木更津のアウトレットという流れです。
行った先で海鮮丼を食べ、アウトレットで少し可愛い水色のストライプのブラウスを買いました。夏ですね。
さて、今までも旅行やら買い物に行くのは当たり前のことで、大学生になってからというもの中高生ではない少し高めの買い物や旅行にも手が出せるだけで何も変わらないことでした。
ただ今回違ったのは「車で行ったこと」です。
行きは友人が車を走らせてくれたので助手席で道や景色を見て悠々と胡座をかき、
帰りは運転をするという中で直面したことがありました。
それは「それでも私は大人になっていたらしい。」ということです。
普段の生活の中で大人と子どもの境目は何なのか、特に年齢を重ねているだけで自分は何も変わっていないぞと思ってきた私でしたが、
今回ばかりはそうは思わなかったのでそのことを言葉にしてみようと思いました。
その前に、少しだけ時間を遡って小中高生の時のことをお話しします。
私は中学・高校を私立に通っていたことを除き、
いわゆる"普通"の小学生、中学生、高校生時代を過ごしました。
その頃は行く場所が限られているので、
現実は逃げようがなく、家・学校・塾・部活をメインに自分の感情や出来事に嫌でもぶつかっていました。
上手くいかない友達関係、終わらない宿題、両親との喧嘩、出来ない勉強、へとへとでも向かう部活、迫り来る受験……といったように現実は絶え間なく続いていて、嫌でも受け止めなければならないものでした。
そこしか行く場所はなかったのですから。
でもそこにはどこかしらに必ず"正解"というものが存在している世界でした。
そしてその"正解"に当てはめればよかったのです。でもそれが重たくて苦しいときがあったのでこの世界から抜け出す環境があればいいな、作れればいいなと思った時がありました。
時間は少し戻り大学に入ってから最近までは、現実に全てぶつからなければいけない事実と、決められた"正解"に当てはめなければならない世界から解放されたと思っていました。
「受け止められないものは、今すぐに受け止めなくてもいいんだ。」
「時間経てば向き合えるし、時間はすべてが解決してくれるだろう。」
敢えて人にぶつからなくてはならない機会は減り、人とある程度距離があると上手くいく人間関係は生まれ、少し寂しい気はするけれど体力をそれに削がず楽になったものだなーと思っていました。
「ははあ、これが大人か。」と自分の心のケアも相手の感情にも気を遣う余裕があってそしてぶつかることはあるけれど、時間をおいて自分にゆとりを持てたらまた少しだけぶつかるというように
相互の余裕を持てるものだと。大人とは最高なんじゃないかと思っていました。
でも、違うみたいです。まだ私は大人を分かっていない子どもだったんですね。
時間はドライブ最中に戻ります。
車が動き始め、アクアライン以外は一般道を通ったのでたくさん駅名と見慣れた場所、天気の移り変わりを見ました。
高田馬場、早稲田、西早稲田、新宿、新宿御苑、四ツ谷、渋谷の交差点、代々木公園、国立競技場前、広尾、五反田、戸越、中延、馬込、西馬込、川崎、川崎大師…、羽田空港の方へ。
それから東京湾アクアライン。
そして帰りは羽田空港、…川崎、…五反田…
その逆を。
普段駅名を聞いても分からないけれど、車で通るとなんとなく位置感覚が掴めるものなんですね。
散歩が一時期ブームだったこともあり、(夏は暑いのでお休みです)2駅か3駅は当たり前のように歩くことをしていたので、前半の部分の駅名の場所はよく歩いていた道でした。
車で2.30分もしないで進む道を、2時間くらいかけて話をしながら歩いていた頃がありました。まだかなり記憶が鮮明なものもありますが、懐かしかったです。
行きでは時に話し、時にぼーっとしながら助手席で流れていく景色と駅名を目で追いながら出来事や会話、誰といたのか、その時の感情を思い出していました。
帰りは行きと打って変わって左右に目を配り、後ろの車の距離感を確認し、巻き込みやバイクはいないか考え、信号に目を光らせ、交差点の名前と目の前の車のブレーキランプを全部視界にいれながら、
綺麗な夕暮れを見つめることなく暗くなっていく高田馬場駅へと向かっていました。
運転していると、中身はいくら子どもであると言っても私はもう20歳(ハタチ)を越えていて、人を轢いたら自分の責任になってしまう少しの恐怖と他の車も走っている流れに乗っている感覚を持ちました。
教習所の車を運転している時は、もしもの時は教官がブレーキ踏んでくれるという安心感があるんですけど、運転最中って自分がしっかりする以外安心感がないんですね。
行きは進んでいく道に加えて、景色や自分の持つ記憶や感情という全体に意識を向ける余裕がありました。
でも帰りはそれらに一切目をくれずに進む方向だけに意識を向けて進んだことになりました。あんなに気になった記憶や感情に、運転している最中は気を取られることはありませんでした。
そして、気付きました。これが大人になるということなのかもしれないと。周りに記憶や感情に意識を向ける時間がないなあ、…これじゃあ"消化できないな"と。
子どものとき、まとめると学生全般は、行きの道を進んでいたときの気持ちと同じで、進んでいく道のことを考えながら堪えられないたくさんの記憶と感情をぶつける時間と多少の余裕を持っていたんでしょう。
でも、大人になると帰りの道を進んでいる時の状況で、進んでいく道とそれでも止まれず目の前のすべきことをやり、痛みが完全に治らないまま治療するタイミングを失い続けても進んでいるのではと思いました。
そして、痛い部分を違うもので埋めて行くんでしょうね。もしかするとずっと進み続けているのはふと立ち止まってしまうと、
痛くて耐えられないから違うものを重ねて完全に消化しないままにしているのかもしれません。
だからたぶん大人ってものは、記憶や感情をどんどん蓄積していって消化できずに何かしらずっと残っていくんだろうと。
そしてそれが自分を作り上げていく要素になっていくんだと思いました。
そしてただ、何回も何回も
残念なことに私は年齢ではもう完全に大人になっていたんだなと思いました。
いままでずっと気付かずに大人だと思っていた態度で人に接していたんだと思います。
子どもでしたね、責任の重さに気付かなかったんですもん。見落としてましたね。
周りを見渡せる余裕のある子どもの大学生になれて私は良かったです。
その気持ちはもったまま責任も持てる自分になれたらいいなと思った私でした。
出来ないことがあれば伝えて
たくさん謝ってたくさんありがとうってこれからも言う自分にはなりたいです。
永遠に大学生でいたいと本気で思いました。
ねえ、でもね、
「それでも私は大人になっていたらしい。」